2018/01/17

5分でわかる北方領土問題 なぜ北方領土問題は起きたのか?

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日本が抱える領土問題の1つにロシアとの北方領土問題があります。

今、問題になっている北方領土とは「国後・択捉・歯舞・色丹」のいわゆる北方四島のことです。もともと、この4島は日本固有の領土でした。

ですが、今この北方4島はロシアにゆる実効支配が継続され、事実上ロシアに領有されている状態となっています。

なぜ、日本固有の領土だった北方4島はロシアに掠め取られてしまったのか?その影には、超大国による陰謀がアリの巣のごとく張り巡らされていたのです。

2月7日「北方領土の日」を前に、今、北方領土問題の歴史に隠された真実に迫ります。

【1855年】日露通好条約

幕末期に当たる1855年2月7日。それまで明確な国境の制定がされたいなかった千島列島の日露間に、明確な国境が制定されました。その制定が交わされたのが「日露通好条約」です。

この時明確になった国境線が、択捉島とウルップ島の間でした。


この時に、日本は国際社会に対し明確に「国後・択捉・歯舞・色丹」の、いわゆる北方4島を日本固有の領土として認められることになります。

【1875年】樺太・千島交換条約

日露通好条約では、樺太は日露両国での共同統治としていました。ですが、何かと争いが絶えなかったため、日露間で樺太をロシア領とする取り決めを行います。

その時、樺太はロシア領。北方4島を含む千島列島全島を日本領としました。


この時、千島列島はまだ「クリル諸島」という名前でしたが、全島が日本領となったことで「千島国」と命名されました。

【1905年】日露戦争〜ポーツマス条約

1904年2月、日本とロシアは朝鮮半島とロシア主権下の満洲南部、日本海を主戦場とした戦争を開始します。これが「日露戦争」です。

ご存知の通り、日露戦争は日本側の勝利となるわけですが、日本も常備兵力20万に対し、100万人を超える兵力を動員することになったため、国内産業の稼働が低下し経済状態が悪化。

ロシア側も、バルチック艦隊の崩壊で制海権を失い、連戦連敗によるロシア帝政に対する求心力の低下から戦争を維持することが困難になっていました。

このような背景から、アメリカが仲介をとりもつ形となり、1905年講和条約が結ばれることになります。これが「ポーツマス条約」です。

このポーツマス条約により、ロシアは樺太の南半分を日本に割譲。1875年に行われた樺太・千島交換条約で明確にロシア領となった樺太の南半分が日本領となるわけです。

【1941年4月】日ソ中立条約の締結

アメリカとの関係が極限までに悪化していた日本と、対ドイツ戦が現実味を帯びてきたソ連の利害関係が一致し、不可侵条約を締結。この条約では、両国が第3国と戦闘状態に入った場合も中立でいることも条文の中に含まれます。

【1941年8月】大西洋憲章

アメリカ・イギリス連合国は、第二次世界大戦に際し、戦争勝利位による領土の拡大をしない旨を示した「領土不拡大の原則」を、米英共同宣言(大西洋憲章)で発表。

「両国は領土的その他の増大を求めない」としました。


これにより連合国側の方針として、戦勝国が戦争勝利の見返りとして領土を拡大しない方針を明確に打ち出したことになります。

【1942年】連合国共同宣言

さらに、翌1942年。連合国共同宣言として、米英2こくだけではなく、連合国として、領土不拡大の原則を支持。この連合国共同宣言にソ連も署名。


この共同宣言に署名したことで、ソ連は戦勝の見返りとして領土の拡大をしない意思を示したことになります。

【1943年】カイロ宣言

翌1943年には、米英中の3カ国がカイロ宣言を発表。この時の発表は以下の通り。

「自国のためになんらの利得をも欲する ものに非ず、また領土拡大のなんらの念をも有するものに非ず」

「同盟国の目的は日本国よ り 1914 年の第一次世界戦争の開始以降において日本国が奪取し又は占領したる太平洋に おける一切の島嶼を剥奪すること並びに満州、台湾及び膨湖島のごとき日本国が清国人か ら盗取したる一切の地域を中華民国に返還することにあり。日本国はまた暴力及び貪欲に より日本国の略取したる他の一切の地域より駆逐せらるべし。」

【1945年2月】ヤルタ協定

太平洋戦争末期、米英ソの3各国によりある協定が結べれることになります。

その協定とは、太平洋戦争によるアメリカ軍の消耗を広げたくないルーズベルトは、スターリンにソ連の対日参戦を迫ります。そして、ソ連の対日参戦の見返りとして、ルーズベルトは以下の2点をスターリンに約束することになります。

  • ポーツマス条約により日本領となった南樺太のソ連への返還
  • 千島列島全島のソ連への引き渡し

つまり、南樺太と千島列島のソ連領有をルーズベルトがスターリンに約束したということです。


樺太を返還、千島列島は引き渡しとした背景には、樺太はソ連領から日本領に変わったことと、千島列島は日本固有の領土のためと捉えることができます。

【1945年4月】ソ連による日ソ中立条約の破棄通告

アメリカの対日参戦の要請を受けたソ連は、日ソ中立条約の破棄を日本に通告します。これにより、1946年4月25日に同条約が失効することが確定しました。

【1945年7月】ポツダム宣言

ポツダム宣言とは、米英中が日本に発した「全日本軍の無条件降伏」を宣言したものです。


正確には「日本への降伏要求の最終宣言」

このポツダム宣言には、領土不拡大の原則とは相容れない条文が盛り込まれます。

「カイロ宣言の条項は履行せらるべくまた日本国の主権は本州、北海道、九州及び四国並びに吾等の決定する諸小島に局限せらるべし」

つまり、カイロ宣言で領土不拡大を謳い日本が奪取した領土を剥奪す ると規定していたのに対し、ポツダム宣言はカイロ宣言に言及しつつも“本州、北海道、九州、四国と、われらが決定する諸小島”を日本の領土として残すとしたのです。

これは、ヤルタ協定にて謳った領土不拡大原則とは相いれない条文ですが、ヤルタ協定にてソ連に千島列島の領有をアメリカが認める約束をしていたため、これに配慮する形が取られたことが推察されます。

この宣言を日本は無視。ただし、日本が無視をすることはトルーマンは織り込み済みだったと言います。なぜなら、これにより、原爆による攻撃を正当化する理由を手に入れるためだとされています。そしてあの忌まわしい事件は起きるのです。

【1945年8月6日】広島へ原爆投下

ポツダム宣言を日本が無視したことにより、原爆投下の大義を手に入れたトルーマンは、人類至上初の年に対する核攻撃をするのです。

これにより、当時の広島市の人口35万人(推定)のうち9万 – 16万6千人が被爆から2 – 4か月以内に死亡したとされています。

【1945年8月9日】ソ連対日侵攻開始・長崎へ原爆投下

広島への原爆投下がなされてから3日後の9日未明、ソ連は日ソ不可侵条約の効力期間内にも関わらず、これを一方的に破り、当時日本領だった、満州、朝鮮北部、南樺太へ突如侵攻。これにより、ポツダム宣言の声明国としてソ連も同宣言に加わることになります。

さらに、ソ連の参戦に驚愕した日本政府が対応を検討する会議を行なっている最中に、トルーマンによる2発目の原爆が長崎に投下されてしまいます。

これが決定的となり、日本はポツダム宣言を受諾する方向へと舵を切ることになるのです。

【1945年8月14日】ポツダム宣言の受諾

ソ連の対日参戦。2度の原爆投下により、日本はポツダム宣言を受け入れ降伏することを決定。8月14日ポツダム宣言を受諾することで、太平洋戦争の終結を迎えることになります。

そして、9月2日に「降伏文書」に正式に署名をすることでポツダム宣言の履行が法的になされることが確定しました。

【1945年8月16日】スターリン北海道の北半分の領有をトルーマンに要請

ポツダム宣言により、各地域にいる日本軍の降伏先が決定します。

満州、北緯 38 度以北の朝鮮、樺太及び千島諸島にある日本軍はソ連極東最高司令官に降伏すべきものとされました。しかし、当初、 8 月 15 日付けでトルーマンからスターリンに送った原案にはソ連への降伏地 として千島が入っていなかったため、スターリンは、翌 16 日付けの書簡で「千島列島の全部」 を盛り込むようトルーマンに要請。さらに、この時、スターリンはポツダム宣言、さらにはヤルタ協定で買わされた約束以上の要求でもある、北海道の北半を加えるように要求するのです。

【1945年8月17日】ソ連軍千島列島に突如侵攻開始

ポツダム宣言を受諾し、降伏をした日本に対し、ソ連は不可侵条約をい方的に破棄し突如として武力による制圧行動を開始します。まず皮切りとなったのが、千島列島最北端の「占守島」でした。

8月17日に始まった占島島の戦闘から9月5日までの間に、全千島列島がソ連により制圧されることになります。


この時、占守島にはおよそ8000人の日本軍将兵がいました。敗戦が確定してからいきなり攻撃を仕掛けられた彼らは、必死にこれを抑え、ソ連の北海道への侵攻を抑えるのです。この占守島の戦いがなければ、北海道の北半分は今、ソ連領だったかもしれないと言われるほど、日本にとってとても重要な戦いとなりました。

【1945年9月2日】降伏文書への正式な署名

これにより、日本が受諾した降伏条件が法的に執行されることとなりました。

【1951年9月】サンフランシスコ平和条約

日本は世界の48カ国とサンフランシスコで平和条約を交わします。この条約の中には、日本が南樺太と千島の領有を放棄することが盛り込まれていました。

この条約の翌日、吉田茂は、平和条約国会で、千島列島の範囲に、国後島・択捉島が含まれると説明。さらに、条約締結後、「南千島は今回の(領土)放棄の対象になっています」と当時の外務省が答弁したことで、国際的にみたら、サンフランシスコ条約締結段階において、日本が国後、択捉両島を放棄したと考えられてしまいました。


日本はこの時の発言を1956年に取り消しを行います。当時の状況を考えると、まずは独立を目指すことが最優先であったため、このような答弁がなされたことは時代背景を考えれば仕方なかったと見るべきです。

【1956年12月】日ソ共同宣言

サンフランシスコ条約にソ連は参加しなかったため、この時点で日本は法的にまだソ連と戦闘中でした。

また、ソ連との戦争を法的にしっかりと終了させ、シベリア勾留されている日本人の帰還を実現し、国際連盟への加盟(ソ連が反対していた)、さらには、占領政策下から抜け出し独立を果たすため、ソ連との和平を目指し日本は動き出します。

ただ、ここで北方4島の領有権問題により、ソ連との和平交渉は決裂することになります。

当時の日本の北方4島に対する主張はこうでした。

侵略によって他国から奪った領土ではない千島、樺太(特に千島)については、カイロ宣言=領土不拡大原則に照らし日本に主権がある。

この時の千島は歯舞・色丹はもとより、国後・択捉 も千島の内ではないという主張がなされました。つまり、サンフランシスコ平和条約で放棄した「千島」に

「歯舞・色丹・国後・択捉」の4島は含まれないということです。

和平交渉と同時にこうした領土問題の解決案を日本はソ連に打診をします。これに対しソ連は、全ては受け入れられないが、妥結案として「歯舞・色丹」の2島の返還を提案してきますが、日本側もこれを受け入れず、和平交渉は難局を極めることになります。

そんな中、両国の妥協案として交わされたのが日ソ共同宣言でした。

結局、日ソ平和条約は締結されず、今後平和条約が締結されたら歯舞群島・色丹島をソ連が日本に引き渡すと記載された条文を盛り込んだ共同宣言で決着。これにより、日ソ間の外交関係がひとまず回復をしたことになります。


日ソ共同宣言に先立ち、日本はサンフランシスコ条約起草国である米・英国、仏に対し、条約内で放棄した「千島」の範囲について問い合わせをしました。これに対し米国は、

「北方領土は常に日本の領土であったので、日本に主権があることは正当として認められなければならないと米国務省の覚書として明文化された公式見解を示しました。つまり日本の主張を支持したことになります。

ですが、英・仏の回答は逆でした。特にフランスからは、サンフランシスコ会議議事録において日本代表(吉田茂)が国後、択捉を南千島として言及しているところに注意を喚起する、との回答があり、日本の主張を支持しないことを暗に示したことになります。

【そして2018年現在・・・】

これまで北方4島の領有権が日ソ間でどう決められ、どう移ってきたのかをお伝えしました。日ソ共同宣言以降も、時の首相たちの手により、様々な交渉が続けられてきましたが、残念ながら、未だロシアに実効支配をされたままとなっています。

日ソ共同宣言から60年以上が経ちますが、北方4島の返還は行われずロシアと領土問題を抱えたまま、未だ平和条約を結ぶことができていません。

戦後未だ解決を見ない北方領土問題。私たちの祖先が命をかけて守り抜いてきたき北方4島のことを私たちは決して見過ごしてはいけません。

この問題は、今を生きる私たちが、絶対に果たさなくてはいけない責任です。

2月7日、北方領土の日を前に、今私たちはもう一度正しい歴史を学び、返還に向けた機運を高めていかなくてはいけないのです。

 

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